震災までの日記(この後取り組んだ「ワン・コマンド」については新しい記事に移行しています)

東日本大震災までは、経営していた雑貨店のブログでした。震災前の記憶として、昔の記事を残してあります。

角館

秋田の角館に「安藤醸造元」というところがあります。その名のとおり醤油、味噌、だしや漬物などを製造販売しているのですが、昨年訪れて大ファンになった私は、今年もここの「しろだし」を買い込みに行きました。

角館は今年は天候不順のおかげでちょうどゴールデンウィークに桜が満開になったそうです。でもGW明けに暖かくなって一気に散ってしまったとの事。当然私たちが行ったころは葉桜でしたが、相変わらず武家屋敷の町並みがきれいです。

私の雑貨店もGWに営業したため、桜の見ごろを逃しましたが、今年は開花予想が難しかったですね。
稲庭うどんを食べて気持ちよく散歩し、醤油とだしをたっぷり買い込みました。

ここでは試食もさせてくれます。漬物もおいしい。また写真を撮るのを忘れて食べてしまいました。

ところで、この角館は私の生まれた会津若松と密接な関係があることを知りました。いまさら無知がお恥ずかしい限りですが、ウィキペディアから引用させていただくと、下記のような経緯になります。それまで会津を400年統治した葦名(芦名)氏の血統が途絶えたところからです。

天正14年(1586年)、蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男義広(1575年-1631年)が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが、天正15年(1587年)に蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った。義広は、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの敗北により米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、会津天寧寺もこの戦いで一時焼亡している。会津を追われた蘆名義広は実兄佐竹義宣を頼って常陸国に逃れ、そののち、豊臣秀吉から常陸江戸崎4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお会津伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝越後国より加増のうえ転封した。
 関ヶ原の戦いでは佐竹氏が西軍に加担したため慶長7年(1602年)徳川家康の命により国替えとなり、父義重、兄義宣とともに出羽国秋田領入りして1万6,000石を与えられた。盛重は名を蘆名義勝と改め、元和年間に出羽国仙北郡角館を居住地に定めた。角館に随従した蘆名家家臣は総勢200名程度であり、河原田家、岩橋家、青柳家、稲葉家などが知られている。なお、青柳家や岩橋家、河原田家は佐竹北家入部後、北家に召し抱えられ、その屋敷は角館武家屋敷町並(国選定の重要伝統的建造物群保存地区)の一画として今に伝えている。元和6年(1620年)、義勝は今日「古城山」と呼ばれる残丘に城館を築き、城下町を北の神代本町から南の勝楽に移し、現代の角館城下町の基礎となる町割りをおこなった。』

 角館の武家屋敷の町並みは会津の葦名氏による町割と家臣の家屋敷だったのですね。私の先輩には葦名氏の末裔がいます。地元ゆかりの地にも関わらず、良く知らないままにこの地に惹かれていました。これも何かの縁でしょうか。また定期的に訪れたいところです。

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